職人のまち加賀

スポット/国指定史跡 九谷磁器窯跡「九谷焼窯跡展示館」にフォーカス!

江戸時代後期に作られた登り窯の遺跡や、昭和15年から同40年まで実際に使用された登り窯を実際に見ることができるのが山代温泉にある九谷焼窯跡展示館です。今回は同館の嶋田 正則副館長にご案内していただきました。

と、その前に!

九谷焼についての基本知識を簡単にお伝えいたしますと…

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―先ず「古九谷」とは?

江戸時代前期、加賀市の山奥にある九谷村で「陶石」が発見され、窯が築かれました。

これが九谷焼の始まりといわれ、特にこの時期に作られたものを「古九谷」と呼んでいます。

―古九谷の再興を!豊田伝右衛門の挑戦

素晴らしい古九谷が絶えて百数十年経った江戸時代後期。

それを復活させようと動いたのが当時、大聖寺の豪商であった四代目豊田(吉田屋)伝右衛門でした。

再興された窯は「吉田屋(豊田家の屋号)窯」と呼ばれ、古九谷と並び称されています。

1823年に旧九谷村の九谷古窯に隣接して窯を開き再興されたものの、その2年後にはここ山代へと場所を移した吉田屋窯。

以後、波乱曲折を経ながらも伝右衛門の情熱は受け継がれ、現在の「加賀九谷」へと繋がっています。

その吉田屋窯の窯跡とその周辺一体を整備した展示館が、ここ、九谷焼窯跡展示館なのです!

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以上、前置きでした。では、早速嶋田副館長に案内していただきましょう!

1.国指定史跡吉田屋の登り窯遺跡

まずはこちら、再興九谷吉田屋窯の登り窯の遺跡です。

国指定史跡となっている吉田屋の登り窯遺跡「九谷磁器窯跡」がある建物

中に入ると、登り窯の基礎だけの遺跡が目の前に広がりました。

当時はこの上に登り窯の本体があったとされています。

こちらが1826年、豊田伝右衛門によって九谷村から移されて以降、同一場所で作り替えや修理を繰り返しながら昭和15年まで受け継がれた再興九谷の登り窯の遺跡です。

正式名称は「国指定史跡 九谷磁器窯跡」といいます。

覆屋は重要な窯跡を保護しつつ公開するため、建築家 内藤 廣 氏によって新たに建設されたもの。構造はハース投影式を採用し、頑丈かつ奥行き感がある天井がまた魅力的です。

窯跡をみると、この窯が3つの構造であったと伺えます。

1つ目は「胴木間」と呼ばれる最初の燃焼室。2つ目は作品を焼く焼成室。3つ目は炎を誘導するための煙道。火が下から上へのぼる性質を利用するため山の斜面に作ったようです。

かなり大きな窯だったようで、入る作品の数は予測ですが1万点程入ったのではとされています!

焼成室にある桶のようなものは「さや」と呼ばれる道具。
登り窯は、この中に器を入れて「さや」ごと窯詰めして焼いたそうです

当時、薪を燃料として焚いた登り窯ですが、現在ではガス窯や電気窯で焼くのが主流になっています。

その違いについて伺いました。

◆電気窯(またはガス窯)との違い◆

①特有の味わい

→薪で炊くので炎や温度のコントロールは難しい反面、特有の味わいになる

②1回の窯焚きで作風のバリエーションが出せる

→窯にはそれぞれ個性があり、炎がよく動くところと動きがゆるいところがあるので昔の窯焚き職人はそれを読むそう。そうすることで、焼き締まった作品から柔らかい肌の作品まで、1回の窯焚きで様々な表情の器が生まれてくる

自身も九谷焼作家である副館長は言います。

「陶芸をやる人間にとって窯は単なる道具ではありません。不思議ですが登り窯だけでなく電気窯やガス窯にも個性があります。窯と心を合わせる気持ちを忘れてはいけないと常々思っています」と。

また、こちらの展示でお客様からよく受ける質問は?と伺うと、

”これはなんの遺跡ですか?”、”どこに作品を詰めるのですか?”、”どこから薪を入れるんですか?”

と、窯の本体がないここでは答えづらいものが多いのだそう。そこで次に、昔使用されていた登り窯が公開されている窯小屋へとご案内するそうです。

2. 加賀市指定文化財 九谷焼業界では現存する最古の登り窯

昔焚かれていた登り窯がこの中に!
上絵の具を焼き付けるための薪で焚く錦窯(平成19年に復元)もこの小屋の中にあります

この小屋の中にあったのが、昭和15年~40年まで実際に使われていた登り窯。平成14年に加賀市指定文化財となった「山代九谷焼磁器焼成窯」です。

窯の中央には窯焚きで事故等がないよう、窯にお供えをした当時の面影が残っています

56年前に火を落としてからずっと使われていない登り窯ですが、「先程の登り窯跡にこれの一回り大きい窯が乗っかっていたとイメージして下さい」とお客様には説明しているそうです。

レンガと土壁で作られている登り窯は推定約1,300℃程まで中の温度が上がるが故、時期が来ればつくりかえる必要があるほど。事故等がないよう、毎回火を入れる前にお供えやお祈りをしていたといいます。

窯は3部屋に分かれており、その側面から作品を出し入れします。1回で1,000個は焼いていたとされており、先程の窯跡はこれの約10倍の規模の窯であったことが予想されるため、1万個という数字が推測されました。

吉田屋窯が操業していた頃は、あくまで名前が残っている人だけで20名くらいが働いていたそうですが、下仕事を行う名前の残らない人々も働いていた可能性があります。

作品を入れた「さや」をお重のように重ね、30時間「本焼き」します。
そしてまた30時間で冷めるそう。
この登り窯は比較的早く上がって早く冷めるのが特徴

九谷焼は1つの作品を何度も焼くことによって完成されますが、その都度ごとに目的と温度が違うため、それ専用の窯を用意して焼いていくというのが伝統的なスタイル。

窯焚きの工程としてはこの登り窯に入る前に先ず「素焼き」専用の窯で800℃程で作品を焼き、釉薬をかけてから更にこの窯で1,300℃で焼き締めます。

副館長が手に持っているのが、テストピースを入れる入り口の蓋

温度計がない時代だったので、丸い穴のような部分にテストピースを入れて、引き出すことで焼き具合を見極めていたそうです。その「染付」(青い色)の発色をみて火を止めるのですが、最終的には職人のカンに頼ったとのことです。

3.上絵を焼き付ける錦窯

器は成形してから800℃で素焼き、1,300℃で本焼きをした後、作品に上絵付をして色絵窯(錦窯)で焼く工程となります。 五右衛門風呂より少し大きいかなというくらいのサイズ感に驚いたのですが、こちらが平成19年に復元され、今でも年に一度は使うことがある薪で焚く錦窯になります。

伝統的な薪で焚く錦窯

錦窯は温度ムラがないよう円柱のかたちをしていて、薪で焚くものは二重構造で作品に直接炎や煙があたらないよう工夫されています。上絵の具は器の表面に溶けつく温度が800℃と低いため、器本体は変化しないのが特徴だそうです。

上の写真をご覧戴くとお分かりの通り、作品を入れた「内炉」は中に浮いた状態で固定されています。職人は窯詰めや窯出しの際、場合によっては他の誰かに足を抑えてもらいながら作業しないと中に落ちてしまう場合もあるといいます。

また、窯焚きの際は防護しないと熱さで顔などが痛くなる程だそうです。これらの窯を見学するに、昔の窯焚き作業はとても大変だったことがよく分かります。

4. 窯元の住居兼工房だった建物を利用した展示館

窯の見学の後は、かつて窯元の住居兼工房で、現在展示棟となっている建物へ移動します。

奥の瓦屋根の建物が展示棟

展示棟では九谷焼の歴史をはじめ、製作工程や道具の紹介のほか、九谷焼体験も実施。足で蹴って回転させる昔ながらの「蹴ろくろ体験」や、プロ用の絵の具を使う本格的な「上絵付け体験」で、オリジナル作品作りに挑戦できます。

展示棟内は皆さんがいらした際のお楽しみとさせていただきますが、一つだけ展示物を紹介させて下さい。

上の写真にある陶片がこの敷地内で見つかったことから、 今回ご紹介した再興九谷吉田屋窯の登り窯の遺跡が発見されたそうです!貴重ですね~。

以上、九谷焼窯跡展示館を見学すると再興九谷にかけた先人の深い志しと、190年以上に及ぶ継承の歴史を目のあたりにすることができます。観光客だけでなく地元の方も、是非訪れていただきたい場所です。

ー取材メモー

九谷焼窯跡展示館

住所 加賀市山代温泉19-101-9

TEL 0761-77-0020

営業時間 9:00~17:00(ただし入館は16:30まで)

定休/休館火曜(ただし祝日・振替休日の場合は開館)12/31・1/1

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